淡河川・山田川疏水開発の軌跡をたどる いなみ野台地を潤す”水の路”
元々、母里村(もりむら/現在の稲美町母里地区)は土地が高く、乾燥しており、田畑を潤す水が不足していました。
稲田はわずかで、大部分の畑地での綿作が主な産業であり、概ね耕作不能の状態でした。元治・慶応より明治初年頃(1864~1868年)にわたって、ひどい日照りが続き、田畑もからからの状態に陥りました。
歳月が移りゆくとともに、土地は次第に荒れ果て、加えて綿産業が外国綿糸の輸入に圧迫され、綿の売れ口もぱたりと途絶えました。
村中の活気が無くなるなか、地租の改正が行われました。土地の実情に合わない重い税が割り当てられ、村民の暮らしは言葉で言い表せないほど悲惨な状況になりました。その結果、貧しい人は村を捨て、西や東へとさすらい、村は廃れ、荒れ果てて、苦しい境遇に沈み込みました。これは、この村の三代難であったといえます。元々、母里村(もりむら/現在の稲美町母里地区)は土地が高く、乾燥しており、田畑を潤す水が不足していました。
稲田はわずかで、大部分の畑地での綿作が主な産業であり、概ね耕作不能の状態でした。元治・慶応より明治初年頃(1864~1868年)にわたって、ひどい日照りが続き、田畑もからからの状態に陥りました。
歳月が移りゆくとともに、土地は次第に荒れ果て、加えて綿産業が外国綿糸の輸入に圧迫され、綿の売れ口もぱたりと途絶えました。
村中の活気が無くなるなか、地租の改正が行われました。土地の実情に合わない重い税が割り当てられ、村民の暮らしは言葉で言い表せないほど悲惨な状況になりました。その結果、貧しい人は村を捨て、西や東へとさすらい、村は廃れ、荒れ果てて、苦しい境遇に沈み込みました。これは、この村の三代難であったといえます。
母里村難恢復史略(もりそんなんかいふくしりゃく/著:北条直正)・緒言冒頭部分を意訳
『母里村難恢復史略』の由来等
加古郡母里村は、稲美町東部の開拓新村の野寺・蛸草・印南・野谷・下草谷の6ヵ村が1889年(明治22)に合併した村です。『母里村難恢復史略』は、明治期に加古郡長や母里村長を歴任した北条正直が、当時の村の様子などをまとめたものです。『母里村難恢復史略』は「母里村の災難の回復の歴史」といった意味です。現在残っている『母里村難恢復史略』は、少なくとも下表の3種類があります。
仮称 | 作成年代 | 作成者 | 備考 | 現存 |
---|---|---|---|---|
北条原本 | 大正3年(1914)頃 | 北条直正 | 北条直筆の原本 | しない |
魚住写本 | 大正4年(1915)頃 | 魚住正継 | 原本を筆写製本したもの | する |
ガリ刷り版 | 昭和30年(1955)3月30日 | 母里村役場 | 筆写製本を謄写版印刷製本 | する |
上表にもあるとおり、北条正直直筆の原本は見つかっていません。北条家のご子孫にもそうした書物は伝世していないといいます。現存する『母里村難恢復史略』では、魚住写本とガリ刷り版の2種類あります。魚住家写本は、北条直正と親交のあった魚住家当主が筆耕者に依頼して大正4年頃に筆写製本されたものと伝わっています。もう一方のガリ刷り版は、魚住写本を元に母里村役場が昭和30年に刊行したものです。
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